【特別企画】…国分寺生まれ「ペンシルロケット」宇宙へ …
写真提供 NASA
…『国分寺ペンシルロケット、宇宙旅行より野口飛行士と帰還』 …

昭和30年4月12日午後3時、国分寺市(当時 国分寺町)本町、現在の早稲田実業学校、この場所から日本の宇宙開発が始まりました。東京大学生産研究所の糸川英夫教授を中心とするグループにより、未来の乗り物としての研究開発の第一歩として、ペンシルロケットの水平発射実験が行われました。
 そして50年、平成17年7月26日、スペースシャトル「ディスカバリー」に野口宇宙飛行士と一緒にペンシルロケットは宇宙へ。無重力の船内でペンシルロケットが宙に浮いた時、日本のロケットの父、糸川先生は宇宙から見守っておられたと思います。
 今、国分寺の中では、日本の宇宙開発の発祥の地として早稲田実業正門前に記念碑を作ろうと、商店会連合会はじめ各種団体と早稲田実業校友会が中心となって、「日本の宇宙開発発祥の地記念碑顕彰会」が設立され、国分寺の資源になるような記念碑を作る計画が進んでおります。
 国分寺の街の活性化の一助になるような素晴らしい記念碑ができるよう、市民の皆様、各種団体の皆様のご支援、ご協力をよろしくお願いいたします。


…ペンシルロケット、宇宙に 野口さんがメッセージ
 日本のロケット開発の基礎を築いた「ペンシルロケット」が宇宙に—。米スペースシャトル「ディスカバリー」搭乗中の野口聡一さん(40)は7日、米航空宇宙局(NASA)のテレビを通じて伝えたメッセージで、実物のペンシルロケットをシャトルに持ち込んだことを明らかにした。
 ペンシルロケットを手にした野口さんは、「今年は日本でロケットの実験が始まってちょうど50年。今回、50年前に打ち上げられたこのロケットをお借りして、国際宇宙ステーションに持ち込みました」と語った。
 また、特に日本の子供たちに向けたメッセージとして、「大きな夢は実現までにすごく時間がかかることがあります。このロケットも、ずいぶん長い時間をかけてついに宇宙ステーションまで来たわけですが、皆さんの夢も長い時間をかけて、いつか実現するように祈っています」と話した。 (時事)
…ペンシルロケットも宇宙旅行
50年前の第1号故糸川教授提案
【ケネディ宇宙センター(米フロリダ州)=滝田恭子】
宇宙を目指した先輩達の思いもスペースシャトルで運んでください__。26日、「ディスカバリー」で飛び立った野口聡一さん(40)には、日本の宇宙開発の原点であるペンシルロケットが託された。関係者らは「50歳を迎えたペンシルが、10歳も若い野口さんに連れられて念願の宇宙旅行へ行けるとは」と感激している。
 ペンシルは東京大学生産技術研究所の故・糸川英夫教授が提案し、戦後の日本で初めて作られたロケット。その名の通り、直径1.8センチ、長さ23センチという鉛筆ほどの大きさ。1955年4月12日、東京都国分寺市で初の水平発射実験が行われ、同年8月には秋田県の道川海岸で高度600メートルに打ち上げられた。200本以上が作られ、日本のロケット技術の基盤づくりに貢献した。
 シャトル乗組員は各自、記念品など私物を一定量まで持っていくことが許されており、野口さんは、母校・東京大学の旗や日本人リーガー7人のサイン入りボールなどと共に、ペンシルを選んだ。戦後の物資が乏しい時代に宇宙への道を切り開いた日本のパイオニアたちに思いをはせ、数少ない現存品の一つを乗組員の小型ボックスに収めた。
 糸川教授の私事を受けて設計を行った垣見恒男さん(76)は「これでペンシルの飛翔(ひしょう)距離が大幅に伸びますね」と笑いながら、「すでにこの世を去った開発チームの仲間たちも、宇宙のどこかで見守っているはず。皆の思いを込めたペンシルが、野口さんの任務達成を助けてくれると信じています」と感慨にふける。  (2005年7月27日 読売新聞)
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