恋ヶ窪用水



写真—熊の神社の北側にある恋ヶ窪用水の跡

 玉川上水が開通してすぐに川越藩領に分水が許可されました、野火止分水(用水)です。その後明暦3年(一六五七)に砂川新田と共に国分寺村・恋ヶ窪村・貫井村の三カ村組合に分水が許可されました。砂川新田、小川新田の分水は飲み水用水ですが国分寺村他三ヶ村組合分水は田用水です。 国分寺村他三カ村組合分水は玉川上水の久右衛門橋(津田塾大学南側府中街道の橋)の少し上流から取り入れられ府中街道の「恋ヶ窪交差点」で連雀通りを東に流れる貫井村分水が最初に別れます。府中街道を南に流れる恋ヶ窪村分水にまた別れます。国分寺村分水は孫の湯通りをそのまま流れて現日立中央研究所の東側を南下し、南町三丁目で国分寺崖線を下り東元町三丁目で野川に流れ込み流域の水田の用水となりました。孫の湯通りから南に曲がった恋ヶ窪村分水はそのまま南下し、熊野神社付近の水田を潤し、湧き水が合流し野川の源流となります。


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